SLやまぐち号

 山口線の「SLやまぐち号」は国鉄時代の1979年8月、小郡〜津和野間62.9kmで運転を開始した。牽引機には鉄道100年を記念して開館した梅小路蒸気機関車館のC57形1号機が抜擢された。

 動力近代化計画に基づき、国鉄の営業線上から蒸気機関車が姿を消したのは1976年3月、北海道の夕張線(現石勝線)追分機関区でのことであった。これに対して、蒸気機関車の消滅が近づいてきたころからその文化遺産的価値と観光的価値がクローズアップされるようになったが、最も早く手を打ったのは大井川鉄道である。古典型機関車の復元運転で実績があったことから国鉄標津線で活躍していたC11形227号機を購入して再整備、国鉄のSL廃止その年の7月に、金谷〜千頭間で運転を開始した。遊園地内あるいはそれに類する施設での動態復元運転はすでに存在していたが、本格的な本線運転としては大井川鉄道が最初となった。「SLかわね路号」は観光客を大いにひきつけて、沿線の寸又峡温泉などの知名度アップにも貢献した。

 この様子を知ったのをきっかけに、当時の高木文雄国鉄総裁が1977年に、国鉄線上でもどこかでSL列車を走らせたいと温めていた意向を示し、急速に実現への具体的な動きに発展していった。

 SL復活の正式な発表は1978年正月に行なわれたが、これと並行して運転路線の候補が絞られていった。条件としては、ターンテーブルはじめSL列車運転の設備が残っており、比較的簡単に整備できること、足の遅いSL列車を運転できるだけの余裕あるダイヤの線区であること、運転や検修にSL経験者が多く残っている現場などが前提となったが、同時に観光地として集客が期待できる場所や、沿線の協力体制が得られることも重要な選定要素となった。

 全国の鉄道管理局から候補が挙げられたが、八ヶ岳山麓の小海線などは、SLブームのころに撮影者の傍若無人なふるまいから農地が荒らされた経験をもっており、協力体制が得られない線区の一つである。

 地元の熱心な誘致活動もあって、こうした条件をクリアして最後に残ったのが山口線であった。山口や津和野という観光地をもち、起点の小郡で新幹線と接続することが決め手となっている。SL列車単独での収支はペイしないため、収益性の高い新幹線利用が大いに期待でき、その新幹線ゆえに大都市からのアクセスが容易である点が評価されたわけである。

 現在の「SLやまぐち号」は、運転開始からすでに24年が経過しているが、C57形1号機の牽引は続いている。運転日は例年3月下旬の春休みから11月までで、長期休暇期間中や連休は毎日、それ以外は土休日の運転が基本である。6月と7月(土休日)にはC56形160号機との重連運転も見られ、そのさいはかつての客車特急列車時代の1等展望車マイテ49形も連結される。

 なお、通常時は12系改造のレトロ客車5両編成を使用しており、車内が明治・大正・昭和、および欧風・展望車風と、それぞれ異なる仕立てとなっている。以前は上下列車とも屋外デッキをもつ「展望車風」車両を最後尾に連結し、折返しの津和野駅では付替えを行なっていたが、4号車の大正風車両の車端に展望スペース(屋内)が新設されて編成の一端に連結された。これにより本年の運転からは小郡寄り1号車が展望車風車両、津和野寄り5号車が展望スペースつき大正ふう車両に固定されている。

(2003年9月号)

 


Last-modified: Sat, 24 Oct 2009 20:56:36 JST