シュプール号 †「シュプール号」は、冬季に運転されるJRのスノーレジャー客向けの臨時列車。国鉄時代の1986年(昭61)1月に運転を開始したもので、首都圏から上信越・東北地方のスキー場へ向けて設定された。国鉄改革に向けて多彩な営業施策を試みていた時期で、以後、毎年恒例となり運転線区も拡大されてきたが、今冬の計画ではJR西日本が運行するだけになっており、いつしか縮小されてしまった。 誕生のころ、スキーは大ブームであり、名だたるスキー場へ向けて大都市から膨大な数のツアーバスが運行されていた。バスツアーは往復交通費に現地宿泊費をパックし、なおかつ格安のため、若者を中心に利用を伸ばしていた。ブームを尻目に鉄道がこれに対抗することは困難とされたが、週末の夜など鉄道のターミナル付近から数珠繋ぎで出発するバスを目の前に、スキー客を鉄道に取り戻すために考えられたのが「シュプール号」であった。 「シュプール号」が従前のスキー臨時列車と異なるのは、原則、団体列車の扱いとしたことで、バスツアー同様に宿泊等も合わせたパック商品として販売した。特急全盛時代にあえて急行(初年は普通)とし、これに団体運賃を適用することで、価格帯もバスなみに引き下げている。使用車両も原則、特急形を使用し、全席指定、着駅からスキー場へは専用の「シュプールバス」を接続させるなど、これまでの「常識」を破った画期的商品であった。 最初に走ったのは、東京圏からの「シュプール上越」をはじめ「信越」「白馬」「蔵王」の4系統であるが、発駅を従来の方面別ターミナルにこだわらず横浜・大船・千葉などとしたことも特筆され、さらに都心ターミナル駅(具体的には新宿)で各方面の列車相互の乗継ぎも可能とした。 翌1987年1月には京阪神から「シュプール妙高・志賀」、名古屋から「シュプール栂池・八方」「シュプールユーロ赤倉・志賀」が誕生、次いで翌年、関西方面から「シュプール白馬・栂池」なども加わった。関西圏でも発駅は岡山・姫路・神戸・和歌山などと多様化していた。これによって「シュプール号」は国鉄〜JR のスキー列車の統一ブランドとなり、それぞれの列車の愛称も「シュプール」のあとに目的のスキー場を擁する地名を付していた。 スキーブームの絶頂期は1992〜93年ごろで、このころはスキー場への道路に大渋滞も発生する一方、座席車でもバスよりゆとりがあり、列車によってグリーン車や寝台車もある「シュプール号」は絶好調で、当時は1シーズンで1,300本近い列車が運転された。大糸線では行き違い設備の増設など、大きな改良が行なわれたほどである。 ところが、若年層の嗜好の変化などからスキーブームは勢いを失って、10年ほどの間にスキー人口は1/3にも減少したと言われる。近年の推移を見ると、運転本数削減に伴い電車・気動車・客車と車種が豊富であった状況から2000年のシーズン(1999年12月〜)に客車列車が姿を消した。2001年、JR東日本がスキー商戦の再浮揚をねらう大手スポーツ用品メーカーと共同キャンペーンを展開するために愛称名を独自に「アルペン号」としたが、翌2002年はJR東海の「シュプール号」とともに消滅し、残るはJR西日本のみとなった。 JR東日本の場合、「シュプール号」の急速な退潮はガーラ湯沢の開業や新たな新幹線の開業など自社内で輸送条件が大きく変化したことが挙げられるが、一般的にはスキー人口の減少により、マイカーも渋滞知らずでスキー場に行ける環境になり、さらにRV車ブームが響いたようである。 関西地区はスキー場が遠く、首都圏よりマイカー利用の条件が悪いため「シュプール号」の余地が残されていたが、2003年は大糸線直通の気動車列車が消えて、電車による信越線方面のみとなった。このため目的地により区別する必要もなくなり、たんに「シュプール号」を名乗ることとなった。今シーズンに設定された列車は大阪〜黒姫間2往復(往路夜行、復路昼行・夜行各1。復路昼行は特急)だが、かつてのような毎日運転もなく、シーズンの運転本数は合計90本に減った。 一方、今冬、JR東日本は、JAL・ANAの航空2社と組んでスノーレジャーの共同宣伝を展開している。JR他社や大手旅行会社や東北・北海道のスキー場とも連携し、需要の再興を大きく仕掛けるためである。自社内のスキー輸送の柱は新幹線に移り、新幹線とバスをセットにした旅行商品が発売されている。 (2005年4月号)
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