義経と しづか †JRグループと関係自治体、団体などが本年秋、9月1日〜11月30日に展開する北海道デスティネーションキャンペーンと小樽市制80周年を記念して、小樽市内の小樽交通記念館で、同館に保存されている「しづか号」と大阪市の交通科学博物館に保存されている「義経号」が対面する。期間は9月1日から鉄道の日の10月14日まで。 両蒸気機関車は、北海道開拓使が1880年(明13)に開業させた官営幌内鉄道のために輸入したもの。北海道の鉄道はアメリカの技術で始まり、このため機関車のメーカーもアメリカのポーター社となった。当初は2両、次いで1882年、1884年、1889年に2両ずつ増備され、計8両となった。日本では珍しく各機に人名が愛称として付され、輸入順に「義経」「弁慶」「比羅夫」「光圀」「信玄」「しづか」とされたが、最後の2両は無名だった。その後、北海道炭礦鉄道に払い下げられたが、1906年に鉄道国有法が施行されて再び国鉄機となり、形式7100形の7100〜7107号(順不同)となった。 当時のアメリカ製古典型機関車は、部品や装飾に美術工芸品的な意匠が取り込まれたのが特徴といわれ、大型ヘッドライト、ダイヤモンドスタック煙突、警鐘、カウキャッチャーなどに、独特の美しさが見てとれる。しかし、テンダー機ながら全長11m級、動輪直径910mm、テンダー車輪径610mmと非常に小型で、開拓鉄道として急ごしらえで敷設する線路を運転するのには好都合だったが、機関車の大型化とともに新線建設などの作業用の役割に転じていった。 1917年に「しづか」を皮切りに廃車が始まり、1924年の「弁慶」を最後に全機が役目を終えた。経年とともに数々の改造がなされ、カウキャッチャーをはずし、筒型煙突となり、一部はボイラー脇に水タンクを設けてタンク機になるなど、最後は往時の面影は失せていた。しかし、廃車後も残った車両に価値が見出され保存されることとなり、1939年に2号機「弁慶」を大宮工場で復元、1940年に東京の交通博物館へ入った。 下って1952年には鷹取工場で1号機「義経」、苗穂工場では6号機「しづか」が復元され、それぞれ交通科学館(現交通科学博物館)、北海道鉄道記念館(現交通記念館)に入っている。ことに「義経」は、1990年に大阪の鶴見緑地で開催された「花と緑の博覧会」を機に動態復元工事を実施、同会場内の周回線で来場者を乗せて運転されている。 ところで、平安の昔、平家討伐に活躍した源義経は、京に凱旋したのち後白河法皇から位を授かったことで鎌倉に起居する兄の頼朝と不和となり、壇ノ浦の合戦で貢献したにもかかわらず、頼朝勢に追われる身となり奥州平泉へと逃げる。このとき愛妾だったのが静御前で、天王寺の海難で別れたのち吉野山中で再会したのもつかの間、再び別離する。静御前はその後、鎌倉で頼朝の尋問を受けたのち放還されて消息を絶ったが、平泉をめざしたものの思い果たせず、郡山で身を投げたとの説もある。義経もその後、平泉で討伐されて世を去った。 この悲恋話に基づき、さまざまな伝説が伝わり、義経と静御前の再会を願う行事も多い。その鉄道版が今回の再会イベントだが、過去にも復元当時の1952年に国鉄80周年記念行事で山手線原宿駅構内で実現したのを最初に、1968年の北海道拓殖100周年記念行事、1980年の北海道鉄道開通100周年記念行事で対面を果たした。つまり、両機は今回で4回目の再会となる。 (2002年10月号) |