40周年を迎えた青梅鉄道公園

 青梅鉄道公園は実物の鉄道車両を展示保存する珍しい「公園」である。9,099平方mの敷地には、1872年、新橋〜横浜間に開業した日本で最初の鉄道を走った110形蒸気機関車(当時の3号機関車、鉄道記念物)をはじめ、SL9両、戦前に製造された初期の国産電気機関車で最後は地元の青梅線で活躍したED16形1号機(準鉄道記念物)、0系新幹線の先頭車の計11両を展示する。そのいずれもが日本の鉄道史を彩った貴重な車両ばかりで、8620形・C11形・ED16形はトップナンバーである。  開園40周年を迎えた今年、「鉄道の日」イベントとして、10月中は開園までの経緯や工事の様子を紹介する写真展を開催している。

自然豊かな丘陵地に市が誘致

 青梅鉄道公園はJR青梅線青梅駅から北へ徒歩約15分、永山公園の一角の小高い丘の上にある。このあたりは野鳥や昆虫が多く生息する自然の楽園である。このような都心から離れた丘の上に鉄道公園が作られたのは、なぜだろうか。

 1961年、国鉄東京鉄道管理局は翌年の鉄道開業90年記念事業として「鉄道公園」の設立を発表した。この時点では建設場所は未定であったが、観光の目玉となる施設がほしかった青梅市が土地の無償貸与を申し出て、1962年3月に国鉄と青梅市が鉄道公園建設に関する覚書を締結、同年10月には交通道徳の高揚、国鉄のPR、消えつつあった蒸気機関車の展示保存に加えて、余剰になり始めた人材の吸収という目的で当地に鉄道公園が設けられた。施設の運営は(財)鉄道弘済会に委託し、係員は国鉄退職者があたった。ちなみに同じ年、大阪に交通科学博物館が、10年後の鉄道100年には京都に梅小路蒸気機関車館がオープンしている。

 当初はSL8両、スシ28形食堂客車・マイテ39形展望客車各1両が展示されていた。スシ28形では往時と同じように車内で食堂も営業していたが、傷みがひどくなり1972年に解体撤去され、代わりにD51形452号機が搬入された。

 1982年9月には台風の大雨による土砂崩壊でC51形5号機が崖下に転落する事故が起き、同機を引き上げたのち展示位置を一部変更した。この崖下はのちに埋め立てられ、1985年に0系新幹線を搬入、展示している。ED16形は、1980年に鉄道公園へやってきた。

 JR発足の1987年にはマイテ39形がJR東日本大井工場へ移設移管され、その1年後に鉄道公園の運営はJR東日本の直営となり、青梅駅所属の駅社員が管理するようになった。しかし、駅業務との兼任では管理に目が行き届きにくく、加えて開園以来露天で展示してきた影響で展示車両はいずれも傷みがひどく、保存というにはみじめな状態であった。そのため1997年1〜3月に全面休園し、展示11両の補修整備工事を実施、きれいによみがえらせた。翌4月には、(財)交通文化振興財団に運営を委託した。同財団は、交通博物館・交通科学博物館・梅小路蒸気機関車館の業務をJR東日本およびJR西日本から受託している。

車両の展示と遊戯機器をミックス

 交通博物館・交通科学博物館と異なり、青梅鉄道公園には乗客を乗せて客車を牽引するミニSL「弁慶号」のほか、乗り物の遊戯機器が設置されている。数だけ比べれば展示車両よりも多いかもしれない。HOゲージ模型のレイアウトや鉄道の知識をつづったパネルなどを展示している記念館の2階半分は、ゲームコーナーになっている。あまりにも遊戯器具が多く純粋なレールファンは違和感を覚えそうだが、これは来園者層にあわせた結果だという。

 鉄道公園は実物の鉄道車両を展示保存しているが、あくまでも「公園」として位置付けられており、「博物館法」に定められている「収集・保管」「調査・研究活動」「教育・普及活動」を行なう機関としての条件を満たしている東京・大阪・京都の3博物館とは性格が異なっている。ゆえに来園者もファミリー層、それも乳幼児を連れた若夫婦、あるいは祖父母といった組み合わせが多い。

 小さな子供は動かない機関車を見るだけではじきに飽きてくるし、展示車両の深い意義はつかみきれない。また、国鉄時代は展示機関車に乗れた。それも運転台だけでなく、ボイラーの上によじ登ることもできたが、今ではもちろん禁止されてしまった。これも来園者層を考えた結果で、危険防止と保管のため、運転台への立入りは9600形など一部の車両に限られている。大きな鉄道車両とダイナミックにふれあう場面が少なくなったのは残念だ。そういう子供たちにも楽しんでもらえるよう、遊戯器具をだんだん増やしていった。ただ、0系新幹線は客室と運転席に座ることができるので、喜ばれている。

屋根がつけられないもどかしさ

 比較的広い敷地であるため、展示車両の上に屋根がつけられない。野ざらし状態での静態保存は、車両にとって一番よくない。塗装を施していても、昼夜の寒暖の差により塗装面が伸び縮みし、やがてはひび割れそこから雨水が浸入し腐食が始まる。定期的に運転されていると、空気を切ることで車体は冷却され、水分は飛ばされる。2002月7月27日に交通科学博物館の屋外展示場に屋根が設けられたのも、京都駅二代目駅舎1番ホームのトラス構造の鉄骨が同館に保存されていたという経緯はあるものの、屋外展示物を保護する意図が大きい。

 それゆえ鉄道公園での保存・保管はむずかしいという。前述のように財団に移管される前は車両の痛みがひどく、展示車両に対する批判も大きいうえ、部品の盗難も後を絶たなかった。それが1997年の整備工事ののち、きれいな姿で展示することで、いたずらがなくなったばかりか、訪問客のマナーもよくなった。また、かつては無料であったため見学客でない人が入り、たんなる遊び場にされることもままあった。そこで保管をきちんとするため100円の入園料を受け取ることにした。わずかな入園料の収入で施設が維持できるわけではないが、入園料を払うことで、ここは見学する場であるという意識が芽生えるのだという。

 入園者数は1998年度の実績で約12万4千人。季節・曜日の波動が大きく、春・秋・連休に増えて、屋外展示のため天気が悪いと入園者数ひと桁という日もある。

 財団としては、交通博物館とリンクさせて鉄道公園のこれからのあり方を考えていきたいとしている。歴史的な車両を末永く見続けるため、私たちもアイディアを出し、協力をしていきたいものだ。

(2002年12月号: 保存車両と遊具が共存 40周年を迎えた青梅鉄道公園

 


Last-modified: Sat, 24 Oct 2009 20:57:01 JST