鉄道連隊

 日清戦争(1894〜95)で、日本軍が清国に攻め入るさい鴨緑江を渡河したが、そのときの日本軍は渡河用の資材の輸送と架橋などは工兵隊が分担していた。資材の輸送は荷駄が用いられたが、大変な苦労を強いられた。陸軍は、鉄道により兵員や大量の物資を遠距離まで速やかに輸送できることに着目し、鉄道の建設や運転、破壊された鉄道の復旧を主目的にした技術工兵部隊として、ドイツ陸軍を範にとった鉄道大隊を1896年(明29)に創設した。

 鉄道大隊はその後、3中隊編制から4中隊編制となり、1904〜05年の日露戦争における活躍にはめざましいものがあった。編制も1907年に連隊となり、1918年には鉄道第一・第二連隊と拡充されて、第一連隊と鉄道材料廠は千葉に、第二連隊は練習部とともに津田沼を基地とし、両連隊間を結ぶように松戸〜津田沼〜大久保〜千葉〜下志津間に演習線が敷設された。この路線は600mm軌間や1435mm軌間の線路が敷かれ、撤去や敷設の訓練を繰り返して行なっていた。また一部では貨物や旅客の便乗も行なわれていたという。

 鉄道連隊は当初は軍用鉄道の建設と運転、復旧を主任務としたが、1918年のシベリア出兵以降は装甲列車の運転や戦闘へも参加している。外地(日本以外をいう)での鉄道大隊・連隊が建設または復旧した路線(鉄道大隊創設以前には台湾の南北縦貫の手押し軽便鉄道の建設がある)には、天津〜北京間の線路修理、安東〜奉天間の軽便鉄道線(安奉線)の建設、南樺太の軽便線の建設、京城(ソウル)〜義州間の京義線(標準軌)の建設、満洲南部における占領鉄道の狭軌化(1524mm→1067mm化)、中国の山東鉄道の復旧などがある。

 鉄道連隊を最も有名にしたのは、タイのノンプラドクとビルマ(現ミャンマー)のタンビュザヤとを結ぶ415kmの泰緬連絡鉄道(タイ・ビルマ鉄道)の建設である。着工からわずか1年3ヵ月後の1943年10月25日に開通したが、日本軍1万人、連合軍捕虜5.5万人、現地労務者7万人が動員され、病没犠牲者が4万人を超えたと推定されている。泰緬鉄道が実際に使用されたのは2年ほどで、ビルマからの兵員撤退輸送が主な任務となった。ここには国鉄から供出されたC56形蒸気機関車が1m軌間に改軌されて使用された。

 鉄道大隊・連隊が使用した主な装備は、車両ではB+B形およびC+C形の双合蒸気機関車、ロッドおよび歯車で連結された5動軸のK形蒸気機関車など、特殊な軽便蒸気機関車が通常型の蒸気機関車とともに多数輸入(一部は国産化されたものもある)された。双合機関車は2両の機関車を背中合わせに連結して1組にした構造で、転車台が不要という利点があったが、使用実績はあまり芳しくなかったようである。

 貨車は91式貨車として、森林鉄道のような台車2台で1組となるものを用意した。そのほか、91式広軌牽引車(走行トラックに鉄道用の車輪付き)、95式走行軌道車(軌道上の戦車)、98式および100式鉄道牽引車(トラックに鉄道用の車輪付き)などの軽列車牽引用車両(いずれも軌間可変、タイヤを付け替えれば道路上も走行可能だった)、95式鉄道工作車(工作機器搭載のトラック)、95式鉄道力車(キャタピラ式のクレーン車)なども装備した。特殊な車両としては、11両編成の臨時装甲列車や7両編成の第二装甲列車が用意され、鉄道沿線の戦闘に出動した。

 施設面では軽便用の軌匡式レール、臨時に架ける橋梁や応急復旧用の91式および93式重構桁(溶接構造)などがあり、いずれも軍用であるため武骨さがあるものばかりである。

 終戦時の鉄道連隊および関連の編制は、鉄道連隊が20連隊、独立鉄道大隊が23大隊、独立鉄道橋梁大隊が2大隊、独立工務大隊が2大隊、独立鉄道工務隊など総数52隊、特設鉄道輸送隊ほかが9隊、野戦鉄道廠が2廠となり、鉄道関連部隊は極端に増設されていた。

 戦後、外地の鉄道車両や施設はすべて放棄となり、千葉と津田沼の施設が国鉄に引き継がれたり、そのまま放置されたが、津田沼〜松戸間の演習線跡の大部分は新京成電鉄の用地となった。この路線の認可をめぐって西武鉄道と京成電鉄が争ったが、京成電鉄側に認可が下りた。その直前に資材や車両を西武鉄道が多数運び入れ、おとぎ電車の山口線や安比奈・常久の砂利採り線などに転用した。

(2005年9月号)

 


Last-modified: Sat, 24 Oct 2009 20:57:05 JST