終焉を迎える「東京エキコン」 †ゆるぎない歴史の重みを湛える東京駅赤れんが駅舎、27mもの高さのある荘重なドームのなかに、ベートーベンが、シューベルトが響いた。バッハも、モーツァルトも、ヴィバルディも流れた。そのとき、夜の2時間だけは雑踏に包まれていたコンコースがクラシックコンサートのホールとなって、聴衆の心を静かに、心ゆたかに高鳴らせてきた。東京駅丸ノ内北口のコンコースで1987年7月21日いらい14年にわたり開催され続けてきた「とうきょうエキコン」であるが、2000年11月9日をもって終止符を打つことになった。 駅という不特定多数が往来する場所で、著名な音楽家たちが奏でる本格的なクラシックコンサート。いかにもミスマッチだが、そのミスマッチゆえか、当初から大きな話題を呼び、ホッと肩の力が抜けた勤め帰りにビール片手に気軽に楽しめると人気を博し、通常のホールでのコンサートとは違うエキコンそのもののファンを生み出すまでに育ち、支えられてきたものである。 この「とうきょうエキコン」は、国鉄が分割民営化されたばかりの1987年春、JR東日本として初代となった木下秀彰東京駅長のもとに持ち込まれたJR東日本社員からのアイデアがきっかけだった。公共の場である駅を使って民間企業としてこれから何ができるか、「お客さま」をどのように集めるか…が大きな課題になった矢先であり、国鉄時代とは違った行動を手探りしていたときだった。駅構内での本格的なコンサートなど、世界を見ても例のないことだった。 日本のクラシック界を代表する作曲家の團伊玖磨氏にプランをもちかけたところ、要旨「日本のクラシック音楽は権威主義に偏して敷居が高く、みずからつまらなくしている。実力のある奏者はもっと街に出なければならない」との持論とも合致し、大いなる協力を仰ぐことが可能となった。そして、團氏は以来、音楽監督として総指揮をとり、舞台にも立つこととなる。 伝統建築である東京駅にはクラシック音楽が似合う。しかし、その音楽を往来のなかでの不特定多数に発信するならば、第一級の奏者でなければ惹きつけられまい。そうした考えから、舞台に立つ人々には錚々たるメンバーが集められ、海外の奏者も多く出演することになる。ジャンルはクラシックのみならずやがてジャスや邦楽、世界の民族音楽などにも広がっていったが、「一流どころ」を呼ぶという基本は崩していない。 エキコン開始の1年後、れんが造りの部屋を生かして「東京ステーションギャラリー」もオープンしたが、ここも「小さくても本格的な美術館」をモットーに、一級のアーティストの作品を展示し続けている。 一方、駅という一般の人々が往来する場所の一画で行ない、そもそも駅をたんなる通過点から憩いの場に変えることはできないか…という狙いから、入場は無料とした。そのため、資金を得るために木下駅長みずからが先頭に立ってスポンサー集めに奔走した。 通路を塞いでしまって苦情が殺到するのではないか、もし演奏中に酔客が闖入したらどうするのか…と、JR関係者のなかにも疑問を投げかける声はあった。しかし、プロジェクトの動きは加速するばかりだった。当時の話を聞くと、とにかく主催者たる東京駅は何かしなければならない…との熱意のもと、とり憑かれたように数ヵ月間を過ごしたのは間違いなかったようだ。また、現在ではコンコースに椅子を並べてのイベントは消防法の面からもむずかしく、最初に突っ走ってしまった「とうきょうエキコン」だからこそ実現したものだという。 こうして第1回目のスイスケルンザー少年少女合唱団の歌声からスタートした「とうきょうエキコン」は、当初は暑い夏も寒い冬もいとわず、毎週火曜日ごとに行なわれた。これも、一過性のものに終わらせまいと必死だったことの現われで、東京駅の顔としてみごと定着する。 駅構内という特殊な場所でコンサートを開くためのできるだけの配慮もされ、開催時間帯は北口ドーム内の構内放送がカットされたばかりでなく、会場に至近だった中央線ホーム1・2番線(現在は京浜東北・山手線ホーム3・4番線になっている)はレールの継目が溶接されている。 1992年3月、鉄道文化や交通文化を研究し育てることを目的に、財団法人東日本鉄道文化財団が設立されると、エキコンはJR東日本と財団の共催となり、資金も財団が受け持つこととなった。この年から春シリーズと秋シリーズの年2回に変更され、そのシリーズごとにおおむね6〜7回の開催へと回数は減ったのだが、それでもエキコンは東京駅を語るに欠かせない催しには違いなかった。 エキコンの魅力に奏者と観客の距離の近さを挙げた人は、バイオリニストのイヴリー・ギトリス氏やピアニストの横山幸雄氏をはじめとして数かぎりない。つまり、通常のホールであればステージと客席は厳然と区分されているが、コンコースの狭い空間とあっては舞台から最後列の間でさえ9mしかなく、全員とすぐそこで対面しているに等しい。観客はマイクを通さないナマの声や音すら聞き取ることができ、奏者は観客の拍手を大きな波としてではなく、一つ一つの粒として聞くことができた。これがどれほど相互の気持ちを結びつけることか… もちろん、限りなく街頭に近い場所なので雑音の多さは論じるまでもなく、もとより音響効果に配慮して建てられている空間でもないのだから、音楽会場としての環境の悪さに眉をひそめた人は、奏者・観客ともにいた。耳を研ぎ澄ましてこそ正確な音が出せ、聞き入ることもできるのだから、それは当然だ。じつは戦災後に仮復旧した屋根がそのまま残る天井は重い照明器具やスピーカーを受け付けず、演出の点でも難点は多かった。しかし予期せぬ距離感の魅力を味わうこととなり、リハーサル時の不満顔がアンコール時には後ろ髪を引かれる思いの笑顔に変わっていた奏者もいたのだという。 初年の年末には「年越しエキコン」を開催して、NHK「ゆく年くる年」での生中継もされた。1995年2月9日の阪神大震災「チャリティエキコン」は馳せ参じた出演者数が100人を越えた。地方から修学旅行にくる中学校から、ぜひともエキコンで歌わせてもらいたいとの申込みもあった。 だが、こうしたハートフルなエキコンも、環境の変化が次第にのしかかってくる。1995年3月の地下鉄サリン事件発生で、駅でのイベント開催に慎重にならざるを得ず、以後、この年の開催はわずか1回。また、北陸新幹線乗入れに備えた中央線ホーム重層化工事のさいはエキコンどころではなかったし、完成にともない改札口の位置がずれたことで、それまで500の客席を設けられたものが、一気に300程度に減ってしまったことは大きな打撃だった。それだけでなく、好況期に各地にこぞって立派なホールができて市井での公演数が増えたことも、少なからずエキコンの価値に影響してきたようである。 こうして、東京駅と東日本文化財団は仕切り直しの時期との決断を迫られ、2001年の財団設立10周年を機に、1996年8月から仙台駅で実施されていた「みちのくエキコン」とともに「とうきょうエキコン」を終えることにしたのである。発展的解消であり、その後のことはさまざまなプランを検討しているが、音楽に限らず広いテーマで、もっと多くの駅から文化発信してゆきたい…と財団はいう。 これまで最多出演のオーケストラは東京シティフィルハーモニック管弦楽団で、延べ11回。これを少ないと受け取るならば、それだけ多彩な奏者を迎えたということになる。 「とうきょうエキコン」の最後となる2000年の秋シリーズは、10月10日・24日および11月9日で、最終回は通算246回目となる。オーケストラアンサンブル金沢の前で、團伊玖磨氏みずからが指揮を執る。 (2000年12月号) |