並行在来線

 並行在来線とは、読んで字のごとく新幹線に並行する在来線のことだが、整備新幹線を議論するうえで避けて通れない特別な意味をもつ。東海道新幹線と山陽新幹線は東海道本線・山陽本線の別線線増として作られたが、1970年に全国新幹線鉄道整備法が施行されて以後の新幹線は、全国に高速鉄道のネットワークを形成するために建設されるものであり、位置付けが異なる。

 東北・上越以降、予定線のうち整備が決まった新幹線― 整備新幹線は4線5区間であるが、建設財源がネックとなり政府は着工を凍結、1987年1月に東北(盛岡以北)・北陸・九州(鹿児島ルート)の凍結解除まで足踏みした。この時点では国鉄の分割民営化が決まっており、新たに新幹線を営業することになる各社は、在来線と新幹線の双方を抱えることは経営的に困難と主張した。新幹線開業により優等列車が廃止される在来線の収支が悪化するためで、国鉄時代、東海道・山陽本線も在来線だけを見ると赤字だった。これが並行在来線問題である。

 このため、1987年12月、政府・与党は申合せにより並行在来線はJRから経営を分離することを示した。つまり実質的に新幹線を望む地元が、なんらかの方法で在来線を引き受ける措置を講ずるとした区間から建設されることになるのである。ただし当初、全国的な貨物輸送などの関係もあり政府は幹線まで絶対的な分離の方針を明示したわけではなく、途上で協議してゆくと問題を先送りした。

 整備新幹線建設においては1988年8月、ミニ新幹線やスーパー特急方式なども俎上に上がり、ミニ新幹線であれば並行在来線問題は起こらない。しかし、フル規格との速度差や輸送力の差は圧倒的で、経済効果にも大きな違いが生じる。このため、大筋ではフル規格新幹線を望む地元が多い。

 1989年1月、政府・与党は北陸新幹線高崎〜軽井沢間の着工を決定するが、このとき、財源はJRが50%、国が35%、地方が15%の割合で負担することと、信越本線横川〜軽井沢間の廃止を決めた。並行在来線を廃止するとした、最初の決定である。

 続いて1990年12月に北陸新幹線軽井沢〜長野間が東北新幹線盛岡以北、九州新幹線鹿児島ルート(八代以南)の着工が決定されて、このときにも並行在来線は「開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認すること」が着工の条件として地元の県側に提示されている。

 この結果、北陸新幹線は1997年10月に高崎〜長野間が開業し、信越本線は横川〜軽井沢間が路線廃止、軽井沢〜篠ノ井間は第三セクター鉄道のしなの鉄道となった。このケースの場合、横川〜軽井沢間は特殊な急勾配区間として貨物輸送は1984年2月に廃止されていたこと、上越線や中央本線などの代替ルートがあることなどで分断による影響は少なかったといえる。

 一方、東北新幹線盛岡〜八戸間は2002年12月に開業を迎え、東北本線の同区間は盛岡県内がIGRいわて銀河鉄道、青森県内が青い森鉄道となるが、こちらの状況は複雑だった。青森県は新幹線と在来線の通過市町村が一致しないことから公設民営の上下分離を主張、岩手県は全区間一貫経営の第三セクター方式を主張と方針が異なった。結果として両県それぞれの第三セクターを設立し、相互乗り入れの形をとることとなったが、青い森鉄道区間は県が第三種鉄道事業者、青い森鉄道が第二種鉄道事業者の上下分離方式を貫いている。

 また、1日50本におよぶ貨物列車については、県側は国の対処を主張した。第三セクター鉄道が自社にとって適正価格を徴収すると、現在は優遇措置が取られている貨物運賃が高騰してしまいJR貨物として競争力が削がれ、モーダルシフトにも逆行するというのがJR貨物ともども、主張の理由である。これについては「適正価格」と、現在の(JR東日本に対する)線路使用料との差額を国の財政措置で埋める制度が設けられた。

(2002年8月号)


Last-modified: Sat, 24 Oct 2009 20:57:09 JST